アドラー心理学の問題点。実践して失敗しないための方法を考察します。

アドラー心理学の問題点。実践して失敗しないための方法を考察します。
この記事の対象者
  • アドラー心理学を実践してみたい
  • アドラー心理学を実践して失敗したくない
  • 子育てにアドラー心理学を使ってみたい

アドラー心理学に感銘を受けて実践してみようと思っている人も多いと思います。しかし、私の経験上ではうまくいかないこともいくつかありました。今は様々な技術が発達して、アドラーの生きた時代とはだいぶん違うのでアドラーの教えもアップデートしていかなければならないと思います。アドラー心理学って何?アドラー心理学について確認したい、という人は以前の記事を参考にしてください。

この記事を読むことでアドラー心理学を実践して失敗することがなくなります。

アドラー心理学の問題点。実践して失敗しないための方法を考察します。

アドラー心理学についてストーリー仕立てでまとまった本として岸見一郎さんの「幸せになる勇気」があります。前作の「嫌われる勇気」で青年が哲人からアドラーの教えを学んだ後の青年と哲人の物語が書かれています。

青年は教師になりアドラーの教えに基づいて教育をしているのですが、教室が崩壊してしまったと哲人に文句を言いに行きます。哲人は青年がアドラーの教えを間違って理解しているからだ、と諭します。しかし、私も小学生の教育をしているので哲人の説明で腑に落ちないところがいくつかありました。

また、私なりにアドラーの教えについてアップデートしなければならないと感じたところがあるので、下記の項目について紹介して行きます。

アドラー心理学への疑問点
  • 全ての悩みは対人関係に集約されるのか?
  • 目的論でも原因が必要?
  • 課題の分離はできるのか?
  • 純粋な共同体感覚はあるのか?

全ての悩みは対人関係に集約されるのか?

アドラー心理学では「全ての悩みは対人関係に集約されている」とされています。その根拠は、もし世界に一人だけだったらお金や仕事の悩みもなくなるからです。直感的には納得してしまいそうなのですが、もし世界に一人だけだったとしても様々な悩みが生じます。例えば、下記のような例です。

対人関係以外の悩み
  • 普段の生活をより便利にできないか
  • 怪我や病気を早く治したい
  • 食べ物が十分にない
  • 害獣に畑を荒らされるのを防ぎたい
  • 動物や自然災害から守られる家が欲しい

このように、もし世界に一人だけだったとしても様々な悩みが生じます。そのため、アドラーの「全ての悩みは対人関係に集約されている」という主張は言い過ぎだと思います。確かに、多くの悩みは対人関係から来ているかもしれませんが、必ずしも対人関係だけということはありません。

また、アドラーは全ての悩みが対人関係から生じるように、全ての喜びもまた対人関係から生じるとしています。これについても例外があると思うので紹介しておきます。

対人関係以外の喜び
  • ペットとの触れ合い
  • 何かを成し遂げた達成感から来る喜び
  • 魚や動物を捕まえた時の喜び
  • 喉が渇いている時に雨が降って来たり、川を見つけた時の喜び
  • 病気や怪我が治った時の喜び

対人関係以外にも悩みがある、という前提を否定したので対人関係以外にも喜びがあるのは当然ですね。特に、自分で何か目標を決めて達成するというのは多くの人が経験していると思います。誰かが評価してくれるからではなく、自分で世界を変えることができるという感覚が喜びに繋がっています。自分が何かを変えられる存在だと実感するのはとても大きな喜びです。

目的論でも原因が必要?

アドラーは原因論ではなく、目的論で考えなければならないとしています。多くの人は原因論で考えてしまうため「悪いあの人」、「かわいそうな私」という話ばかりに目がむくため、現状を変えられません。しかし、目的論で考えると「これからどうするか」を考えるので現状を変えていけるとしています。

確かに、目的論は有用な考え方です。しかし、まだ赤ちゃんが何でもかんでも口に含むように原因と結果が理解できていない、という可能性もあります。

実際に、赤ちゃんは産まれた瞬間からデータベースを自分の中に構築するために様々なことを試して因果関係を学ぶことが知られています。また、赤ちゃんの中には過去や未来といった時系列がないため、何が原因で自分が嫌な気持ちになったのか分からない、ということも知られています。詳しくは下記の記事を参考にしてください。

このように目的論で考えるためにも人生経験から原因を学ぶ必要があります。そのため、目的論だけでは不十分で原因論も必要と考えられます。「これからどうするか」を考えるためにも、自分の目指す姿になるために何をすればいいのか分からないと行動ができませんもんね。

個人的には原因論や目的論とかはあまり考える必要はないと思います。とにかく前向きに行動して、うまくいった時やうまくいかなかった時に原因を学ぶ、という姿勢が良いと思います。原因と結果がはっきりしていれば良いのですが、何かに挑戦してうまくいくかどうかは時代や運など不確定要素が多くはっきりしていません。そのため、とにかく行動してみることが重要になります。失敗が怖くて何もできない、という状態にならなければ自分の人生を歩んでいけるのではないかと思います。

課題の分離はできるのか?

アドラーは「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えることで課題の分離ができるとしています。なぜ課題の分離が重要なのかというと、自分の課題が把握できていないことで他人をコントロールしようとしてしまい、正しい動機で行動できなかったり、他人が思うように動いてくれなくてストレスが溜まったりするからです。

例えば、課題の分離ができていな人は、他人に褒められたいという動機で仕事を行い、もし褒められない場合には手を抜いて仕事を行うようになります。仕事を一生懸命行うかどうかは自分の課題で、他人が褒めるかどうかは他人の課題です。こうした課題の分離ができていないため正しい行いが出来なくなります。

課題の分離を行うためには「自分がコントロールできることに集中する」ことが重要とされています。上記の例でも、他人が褒めてくれるかどうかは自分にコントロールできないですよね。

しかし、課題の分離はいつでも出来るという訳ではありません。例えば、仕事ではチームで同じ課題に取り組むことがあります。役割が決まっていても課題に失敗してしまったらチーム全員で責任を取らなければなりません。特にチームのリーダーというのは一番の責任が課せられます。

この場合、最終的な結末を引き受けるのはリーダーですが、自分のコントロール出来ることに以外に結末が依存しています。そのため、課題の分離がはっきりと出来ません。

確かに、チームリーダーがリーダーとしての役割をこなしていれば問題が起きないような気がします。しかし、仕事をせずに言い訳ばかりしているどうしようもないメンバーがいればリーダーが優れていても結果がでず、責任を問われることになります。このような場合に課題の分離という考え方は成り立ちません。

そんなメンバーは解雇されるから最終的な結末を引き受けている、という反論もあるでしょう。しかし、求人が集まりにくい、労働者の保護といった外的要因により解雇や減給という措置が取りにくいのも事実です。課題・責任・裁量が個人に依存していれば良いのですが、仕事ではこれらの3つを多くの人と共有している場合や十分に与えられない場合が多いと思います。そのため、課題の分離が出来ません。

私は「課題の分離」というよりは「個人の尊重」が重要だと思います。「課題の分離」は人間関係がドライになる可能性を持っています。しかし、個人を尊重していれば相手をコントロールしようとしなくなりますし、相手の課題だから自分には関係ない、とは考えなくなるでしょう。自分には自分なりの考え方があり、相手には相手なりの考え方がある、その上で課題に対してどのように対処すれば良いのか、という考えでいれば人間関係が深まりチームで課題・責任・裁量を追うことが出来ます。

純粋な共同体感覚はあるのか?

共同体感覚とは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを言います。もう少し分かりやすく言うと、他者の喜びを自分のことのように感じられることを言います。アドラーは自分の興味や得意なことで他者貢献することで、社会と調和しつつ自立して生きることができると述べています。

一方で、課題の分離でも紹介したように、他者貢献のために行動したからと言って他人に褒められることを期待してはいけないと言います。なぜなら、他人に褒められることが行動の動機になってしまうからです。アドラーはあくまでも自分の好きなことを追求した結果、他人に貢献することになり共同体感覚に至る、と述べています。

こうした考え方を聞いて、私は「共同体感覚の中にも種類があるのではないか?」と思いました。自分の好きなことを行なって他人の役に立ち、何も見返りを求めない、と言うのは純粋な共同体感覚だと思います。幼児を対象にした実験では人はルールよりも倫理的な規範が重要だということが本能的にわかっている、という研究結果もあり、見返りを求めないような「思いやり」の行動があることも確認されています。

しかし、私たちには他人に評価されるなどの見返りが欲しい、と言う欲求があります。アドラーはこの欲求に従ってはいけないと言いますが、私は欲求があるのだからうまく付き合う方法を考えた方が良いと思います。それに、この欲求に従っても共同体感覚に辿り着く、と言う理論も成り立ちます。

例えば、上記では見返りがないために他人のために行動しなくなる、と言うことを紹介しました。しかし、見返りが欲しい人は見返りが無かったから行動しなくなるのではなく、見返りを得るために別のことにチャレンジするとも考えられます。これを繰り返していくうちに相手が見返りを返したくなるぐらいの他者貢献ができるようになります。

このように、見返りがあろうが無かろうが結局は他者貢献が喜びとなる共同体感覚と同じような状態になると思います。それに加え、人には「有能さを示したい」と言う基本的な欲求があるので、どちらかと言うと純粋な共同体感覚よりも、見返りを求めた共同体感覚を持っている人の方が多いように思います。

他にも人は自分が好きなこと分からない、という議論もあります。アドラーは利己的に好きなことで人の役に立つと共同体感覚に入ると言っています。しかし、そもそも好きなことが分からない人はどうすれば良いのでしょうか?多くの人は自分が好きだと思って始めたことでも、「成長しにくくなった」、「思ったほど好きでは無かった」という理由で辞めてしまいます。そのうち、自分が本当に何が好きなのか分からなくなってしまいます。

その点、他人に喜んでもらうと言った見返りを求めた行動は、自分が好きかどうかに関係ないので様々な選択肢があります。また、自分の選んだ選択肢の中で「思いやり」を持って行動すれば相手が喜んでくれて、それが自分の喜びに変わるでしょう。

アドラー心理学で教育はできるのか?

アドラー自身が教育に熱心だったこともあり、アドラー心理学は教育にも有用とされています。岸見一郎さんの「幸せになる勇気」ではアドラーの教えを学んで学校の先生になった青年が登場します。青年はアドラー心理学を実践してみたら教室が崩壊した、とアドラー心理学に詳しい哲人に相談に相談します。哲人はアドラーの様々な知識を使って答えるのですが、私的にはあまり現実的ではないと思いました。

褒める、叱るは有効ではないのか?

アドラーは教育するときに子供と先生という縦の関係になってはいけないと言っています。一つの良い例が「褒めてもいけない、叱ってもいけない」というものです。褒めるという行為も叱るという行為も、上に立つ人が下の人に評価を下すことなので縦の関係になってしまいます。

ではどうすれば良いのか?という問いに対してアドラーは感謝と勇気づけと答えます。これにより、子供は誰かに褒められるら、叱られるから、という動機ではなく自分の内側から生じた動機によって動けるようになるとされています。

しかし、私はこの理論は理想でしかないと思いました。私自身、小学生にスポーツを教えているので子供との関わり方はよくわかっています。アドラーの言う通り、感謝と勇気づけだけしていたのではスポーツが成り立ちません。その理由として

感謝と勇気づけだけでは教育ができない理由
  • 集団行動が成り立たない
  • 言葉を理解できない・忘れてしまう
  • 自分をコントロールできない

集団行動が成り立たない

一番の理由は集団行動が成り立たないからです。小学生がスポーツをする際に全員がやる気があるとは限りません。親に無理やり連れてこられていたり、スポーツよりも砂遊びの方が好きだったり、ただボーッとしている子もいます。そんな子供に対して感謝と勇気づけの効果がないことは想像がつくと思います。叱るとまでは行かないまでも「ここに並んでね」と優しく言っても効果は薄く、強く叱った方が効果があります。誰にも迷惑がかからないのであれば優しく言いますが、相手チームがいる場合だと厳しく言わないと相手チームに迷惑がかかります。

学校でもこれ同じようなことが起こると思います。子供が勉強したくない場合、子供は勉強せずに騒いで他の子供の邪魔をします。この場合、叱らないと子供の行動は改善されませんし、他の子供にも迷惑がかかります。その子供にわかるように時間をかけて指導できればいいのですが、一人一人にそう言った時間を使っていると授業が進まなくなります。その点、叱ると言う行為は短期的には効果が出るので有効な手段だと思います。

このように、アドラーの「感謝と勇気づけで教育をする」と言うのは学校や集団行動をする際には成り立たない理論だと思います。上記の「課題の分離」でも紹介したように、集団行動は一人一人の行動が他の人に影響します。そのため、感謝と勇気づけをする暇がありません。それよりかは、褒めたり叱ったりすることによって一時的にでも行動を改善させることが有効になります。

言葉を理解できない・忘れてしまう

2つ目の理由として言葉を理解できなかった・忘れてしまった、という理由があります。褒めたり叱ったりすることが有効でない理由として、褒めたり叱ったりしても行動が改善されない、ということが挙げられています。しかし、だからと言って感謝や勇気づけがにより行動が改善されるとは限りません。実際に、私は時間をかけて子供たちに勇気づけを行っても行動が改善されなかったということを何度も経験しました。

この理由として、子供が言葉を理解できなかった・忘れてしまった、ということが考えられます。子供たちに理解できたか確認しながら指導を行っていますが、頷くだけで本当は理解できていなかったことが考えられます。また、子供は教えたことをすぐに忘れてしまいます。スポーツの技術的なことを教えても2、3日したら忘れてしまいます。このことからも、感謝や勇気づけを行ってもすぐに忘れてしまうことが行動が改善されない理由だと考えられます。

こうしたことを考えると褒める叱るという行為は効率的な行為だと考えられます。一時的にしか効果がなかったとしても、どうせ忘れてしまうのなら同じことです。

自分をコントロールできない

3つ目の理由は子供が自分をコントロール出来ない、ということです。子供は理性ではわかっていても感情に従って動いてしまいます。そのため、感謝や動機づけを行っても結局は自分のやりたいことを行うので行動が改善されません。

子供が片付けをして感謝を示しても次の日には散らかったままになっている、というのはよくあることだと思います。このことからも褒める、叱るという行為が効果的ではないように、感謝と勇気づけも効果的でないことが分かります。

では、どうすればいいのか?という疑問に対して私は感謝、勇気づけ、褒める、叱る、全てを駆使して教育するしかないと思います。何が正解かわからないのでとりあえず全部試します。それで効果があった方法を選んで集中的に行う、という方法しか思いつきません。いろんな経験をするうちに子供が成長して「自分をコントロールしないといけないな」と感じてくれるときがあるのではないかと思います。

科学的にはマインドフルネスが効果があった、という論文もあるので興味のある人は下記の記事を参考に試してみてください。

共同体感覚へ辿り着く教育法

アドラー心理学では共同体感覚へ辿り着くことをゴールとしています。そのために、教育という観点からは何ができるのでしょうか?アドラーは自分の興味や関心など自分の内側から生じた欲求に基づいて行動することで人の役に立ち、共同体感覚へ至るという説明をしていました。そのため、褒めたり叱ったりという行為を否定しています。これに関しての反論はすでに上記で紹介した通りです。

そもそも、褒めると感謝の違いは重要なのでしょうか?どちらも相手が喜んでいることが伝わる行為です。共同体感覚とは自分の欲求に基づいて行動するために見返りを求めない、というものです。しかし、見返りを求めて他者貢献を続けるという共同体感覚もあるのではないかという話も紹介しました。重要なのは他人の喜びが自分の喜びになり幸福感を感じるようになることです。そのため、褒めると感謝の違いはそれほど重要ではないと考えます。

確かに、褒められるために行動する、という子供はたまにいます。アドラーのいう褒めるという行為の副作用が出ています。しかし、褒められないと行動しないという大人はいないと思います。この現象から、私は大人になるにつれて褒められることから感謝されることに興味が移動すると考えます。実際に、大人になるにつれて他人に褒められても子供の時に感じていたほどの嬉しさを感じなくなった、という人は多いのではないでしょうか?そのため、子育ての時に子供を褒めたとしても、大人になるにつれて自然と感謝されることを望むようになると考えられます。

他にもアドラー心理学ではないですが、心理学の知見をもとに子育ての研究についてまとめた記事がありますので以前の記事も参考にしてください。

まとめ

今回はアドラー心理学についていくつかの論点を紹介しました。

論理的にはアドラーの言う通りだとしても、実生活とマッチしていない部分があると思います。この点は「幸せになる勇気」の青年と考えが一致しています。アドラー自身も常に考え続けなければならない、と言っているのでこうした批判的な記事も描いてみました。

私自身、アドラーの考え方はすごく参考にしているので全てを否定している訳ではありません。この記事を読んで「アドラー心理学も大したことない」と言う感想を持たないようにして下さい。

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