人生とは?哲学者の名言から学ぶ生き方。人生に疲れた・辛いと感じる人におすすめ

人生とは?哲学者の名言から学ぶ生き方。人生に疲れた・辛いと感じる人におすすめ
この記事の対象者
  • 人生って何だろう?
  • 人生に疲れてしまった
  • どう生きたらいいのかわからない

どのように生きていくべきか?と言う問いは多くの人にとって共通のテーマだと思います。この問いに対して哲学者の言葉が役立ちます。哲学といっても難しく考える必要はありません。専門用語を使わなければ誰でも分かりますし、多くの人は哲学者たちと同じような事を考えたことがあると思います。

この記事を読む事でどのように生きていけばいいいのか、ヒントが分かります。

人生とは?哲学者の名言から学ぶ生き方。人生に疲れた・辛いと感じる人におすすめ

この記事では哲学者たちの名言を参考に哲学者たちの考えを深掘りしていきます。残念ながら名言だけ読んでもあまり意味が分かりません。あまりにも言葉が少なかったり、哲学者たちの人生まで理解しないと本当の意味がわからないからです。今回は下記の哲学者たちにの名言について掘り下げていきます。

紹介する哲学者たち
  • アリストテレス
  • ヘーゲル
  • パスカル
  • キルケゴール
  • ニーチェ
  • サルトル
  • パース
  • レヴィ=ストロース
  • フーコー

アリストテレスの名言

徳とは、我々にとって中庸である行為を選択する態度である。

アリストテレスは「無知の知」で有名なソクラテスの弟子だったプラトンの弟子です。哲学だけでなく、自然学、動物学、天文学、気象学などあらゆる分野を詳細に分析して体系的にまとめています。この例からもアリストテレスがどれだけ天才か分かります。

このアリストテレスは政治体制についても体系的にまとめており、独裁政治、民主政治、貴族政治などどれが良いと言えないとしています。現代の考え方では民主主義が正解、と思ってしまいますが、アリストテレスは否定しています。その代わりに、アリストテレスは各政治体制の中間を取る事を推奨しています。その時代にあった最適な体制を作る事で最良の政治体制になると述べています。

こうした考え方は政治体制だけではなく、様々な場面で応用できると思います。例えば、宗教と科学の関係でも科学が絶対だと思って行動していると倫理的に間違った判断をしてしまう可能性があります。他にも仕事選びの時に、「絶対にこの職種」と思って就職すると思ってた仕事じゃなかった、と言うことになったり、「どの仕事でもいい」と思って仕事を選んでも別の仕事もやってみたいな、と感じるようになってしまいます。このように絶対の正解はなく、常に中間となるところを選ぶようにすると言うのは良い教訓になると思います。

さらに、アリストテレスの優れている点は師匠のプラトンの考えたイデア界(物の本質を追求する際に、物の本質は元々イデア界の中にあり、現実界ではイデア界のものを取り出して利用している、と言う考え方)を否定しているところです。例えば、iPhoneなどは近年開発されたものなので、もともとイデアの中にあったとは考えにくい、と言う否定の仕方です。こうした論理的に師匠の意見にもしっかりと反論できる姿勢も素晴らしいですね。

ヘーゲルの名言

真なるものは全体である。そして全体とは、自分を展開することによって自分を完成してゆく実在にほかならない

哲学とは世界の仕組みを解明するための学問です。しかし、自分が見ている世界が主観的なものであり、客観的に見た時とは異なっているのではないか?と言う疑問が生じました。そこで様々な哲学者が主観と客観に対しての考察を行いました。

例えば「我思う、故に我あり」で有名なデカルトは、考えている自分がいると言うことは自分は存在していると言うことだ、と述べています。さらに、神が人間を作ったのだから客観的に世界を正しく捉えられているに違いない、とも述べています。ただ、デカルトのような神の存在を前提とした考えは現代では受け入れにくいと思います。

こうした考えに対してヘーゲルは主観と客観を分けて考えても、意識に現れるのは主観だけなんだから客観を考えても意味がない、と述べています。また、主観が物事をどのように認識されているのか?と言う問いに対して弁証法を使って説明しています。弁証法とはテーゼとアンチテーゼがある時に新たなテーゼ(ジンテーゼ)が生まれる、と言うものです。例えば、昔は携帯電話は電話として認識されていました。しかし、メール機能もついて電話の定義が揺らぎ、携帯電話というジンテーゼが誕生しました。ヘーゲルは全ての物事がこうした変化の結果にあると述べています。確かに、主観での弁証法の結果として客観が作られる、と解釈できます。

さらに、主観で行われる弁証法の結果、社会も理想型に向かうと述べています。弁証法を発展させていくうちに理性が育ち、道徳や秩序が身につきます。また、他人ともお互いの自己実現を目指すためのルールが作られます。

子供の頃に「もし、自分が相手の立場だったら」という問いをされたことがあると思います。これは一種のアンチテーゼですよね。こうした問いを自分の中で作り、答えを出していく事で客観的にも倫理的と判断される行動ができるようになります。ヘーゲルの名言はこうした真理を的確に捉えていると思います。

パスカルの名言

人は考える葦である

有名な名言ですよね。葦とは水辺に弱々しく生えている草のことを言います。つまり、この名言は「人は自然の中で弱い存在だが、考えるという点において偉大だ」ということを表しています。動物よりも複雑なことを考えたり、悩んだりできることが人の偉大なところだ、ということですね。

パスカルは「ヘクトパスカル」などのように物理学でも大きな功績をあげています。また、24歳の時に機械仕掛けの計算機を作り上げ、近代科学の発展に大きな影響を与えています。こうした、知識を生活の役に立てるという考え方はこの時代にできたもののようです。

イギリスの近代哲学の創始者と言われるベーコンは、こうした知識を獲得する時に陥りがちな4つの誤りを「イドラ」という言葉で表現しました。「イドラ」とは偏見や先入観、迷妄のことをさします。

知識を獲得する時の4つのイドラ
  • 洞窟のイドラ…個人が受けた教育や環境からもたらされる偏見
  • 劇場のイドラ…伝統や権力と結びついた学説に無批判になる偏見
  • 種族のイドラ…無関係なものを強引に当てはめようとする偏見
  • 市場のイドラ…言葉を誤った用法をで使ってしまうことによる偏見

知識を身につけて世の中の役に立てるというのは当たり前になっていますが、こうしたイドラに陥らないようにしたいですね。

キルケゴールの名言

人生は、後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない。

キルケゴールは「死に至る病」という本を出しています。このタイトル死に至る病とは絶望のことを表しています。人には精神があるため、何を達成しようとも避けられない死があることに絶望すると述べています。また、動物や昆虫には精神がないため絶望することがない、とも述べています。つまり、絶望というのは人に特有の病、ということになります。さらに絶望のパターンとして大きく2つのパターンを述べています。

絶望のパターン

  • 有限性・無限性
  • 可能性・必然性

有限性・無限性

有限性の絶望とは、現実の世界の中で立派な親や有能な社会人になろうとしますが、それらは有限的なものなので、次第に本当の自分を見失って絶望する、というものです。人は歳をとるので、いつまでも立派な親や有能な社会人ではいられないですよね。こうした有限性により絶望すると述べています。

無限性の絶望とは、人類や歴史などに自分の人生を重ねようとしますが、やがて自分の存在が希薄になり絶望する。というものです。自分の功績を後の世に残そうと思っても、他の功績を残した人と一括りにされたり、一般化されて自分の存在が弱まっていく、ということですね。

可能性・必然性

人は可能性があることで絶望せずに済みます。全てが必然的に決まっているとすると、自分がどんなに努力しても無意味になるので絶望します。しかし、必然性を打開する可能性があることで絶望せずに生きていけます。例えば、就職活動をしている時には希望する会社に入れる可能性があるので、面接の対策や自己分析などが行えます。しかし、希望する全ての会社に落ちた時には就職できる可能性が消えてしまったので、全てが必然となり絶望します。この絶望に負けないため、生きていくためには可能性を実現することは必要なく、可能性を持つことが必要だと述べられています。就職活動で全ての会社に落ちたとしても、自分で別の目標を見つけて努力しますよね。絶望したままでは生きられないので、人は自然と様々な可能性を探ります。

キルケゴールの名言は、こうした絶望の中でも前向きに生きていくしかない、ということを表しています。キルケゴールはこの絶望に打ち勝つためには神の存在を信じることだ、と述べています。確かに、神の存在を信じていれば可能性が見つかるので努力できます。しかし、神の存在を信じれない人もいると思います。そういった場合はニーチェの言葉が参考になります。私も神の存在が信じられないタイプなのでニーチェの考え方にとても納得しました。

ニーチェの名言

神は死んだ

「神は死んだ」と聞いただけではこの言葉の本当の意味がわかりません。正しく理解するためにはニーチェの「強者と弱者」という言葉から理解していきましょう。強者とは自分の行いが良いと考えることができ、欲望のままに行動できる人のことを言います。一方、弱者は強者の価値を下げて相対的に自分の価値をあげようとします。どうやって強者の価値を下げるのかというと、例えば宗教を使います。「貧しいのが美徳だ」、「欲望のままに生きたら地獄に落ちる」などです。こうした弱者の理論に対してニーチェは「神は死んだ」と言ったのです。

弱者にとっては途轍もなく恐ろしいことだと思います。自分の存在の価値を高めてくれる存在を否定され、禁欲的に生活しても意味がない、と言われたのですから。自分に何の価値もなく、死んだ後に何の救いもない、というのはものすごい虚無感を感じることだと思います。ちなみに、こうした虚無感のことをニヒリズムと言います。

この虚無感に対してニーチェは力への意志を持つことを推奨しています。力への意志とは、自分の思うがままに生きて自己実現を肯定することを言います。権力やお金、という意味ではありません。自分の命に意味がなく消えてしまうものだとしても、自分で目標を決めて命に意味を見出そう、という考え方です。つまり、弱者に対しても強者になりなさい、と言ったということですね。

この考え方を受け入れるのは難しいかもしれませんが、見ないふりをしても後悔するだけです。現実を受け入れなければ、強者によって利用されるだけの人生になってしまいます。個人的にはこの考え方がおすすめです。さらに、サルトルも同じようなことを述べているので参考にしてください。

サルトルの名言

人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである

サルトルの考え方はキルケゴールやニーチェのものと共通した点があります。サルトルは人の人生は無意味なものだ、と言っています。ただ、自分の存在が無意味なものだ、と言われてもなかなか受け入れられない人が多いと思います。こうした悩みは人に特有のもので、人が物や動物とは違うところだからです。

サルトルは人生に意味がないから何でも自由に決められる、としています。もし、自分の存在に意味があるとするなら、その義務を果たすために人生を使わなくてはなりません。しかし、人生に意味がないのだとしたら何をしても良い、ということになります。この発想の逆転は力を与えてくれるのではないでしょうか?自分で課題を見つけ、SNSやYouTubeなどで発信する今の世の中に合っている考え方だと思います。

しかし、この自由には責任も伴います。誰かを誹謗中傷して自殺に追いやったり、自由に行動した結果多くの人を傷つけてしまう、など行動の責任は取らなければなりません。サルトルはこうした自由と責任から逃れようとする人を不誠実と見なしています。

パースの名言

人が何かを学ぶためには学ぼうと欲しなければならず、初めから心が傾いている考えに満足していてはならない

この言葉は「頭の中でどれだけ考えたにせよ、実際に行動してみるまで正しいのか間違っているのか分からない」ということを表しています。パースは科学者でもあるので、仮説を立てて検証し、実験結果に基づいて知識をアップデートするという科学者的な考え方をしているのが特徴です。

例えば、自分が何を仕事にしたいのか?という問いは自分でも分からないものです。そこで、どの仕事をすればいいのか頭の中で考えるのではなく、とりあえず就職します。仕事をしているうちに「この仕事は自分に向いていないな」、「こんな仕事の方が楽しいかもしれないな」ということが分かってきます。その経験をもとにどんな仕事に就きたいか考え、転職し仮説を検証していきます。こうした思考と行動を繰り返すことで真理に近づけるとしています。

また、アメリカの哲学者のデューイはこの考え方を発展させ、教育にも実践的な活動を取り入れることで子供達の想像力の発達を促しました。人生を前に進めていくためには思考だけではなく、行動が重要ということを教えてくれています。

レヴィ=ストロースの名言

人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化

世界がどのように作られているのか?という問いに対して言語によって世界が作られている、という考え方が広がってきました。確かに、言語によって様々な考え方や知識が広がり社会の構造が広がっていきますよね。その中で、レヴィ=ストロースは言語が変わっても変わらない普遍の構造があるはずだ、と考えました。確かに近親婚の禁止や集団に貢献するのが善とされている、などの構造があります。こうした考察を進めていくうちに、西洋文明が先端を走っていると考えるのではなく、単に未開の文明と異なっているだけだ、と考えるようになりました。

ちなみに、レヴィ=ストロースは親日家としても知られており、日本の自然と共存するような文化に感銘を受けたとされています。産業革命で自然を破壊しながら大量生産・大量消費を行う西洋文明とは全く違いますよね。ただ、最近は日本も西洋化して同じようなことをしていますが…。

レヴィ=ストロースはこうした文明の構造によって人の行動は制限されている、と述べています。スポーツ選手になろうとしても、多くの人がそのスポーツに興味を持っていないとお金が手に入らないので断念しなければなりませんよね。そのため、サルトルのいう自由は本当の自由ではないと批判しています。自分の生活している社会の構造との関係を理解した上で、自分の行動を決めていかなければならない、ということですね。

フーコーの名言

人間は波打ち際の砂の上に書いた顔のように、消滅するだろう

この言葉は人間の「主体」や「意識」というものが、社会構造の中に規定されていると考えいるようになったことから言われています。例えば、機械やシステムにより社会を効率的に動かしていこうとしているのに、「手作業にこだわりたい」という主体性を持った人間がいたとしても淘汰されていきますよね。そのため、個人の意識の中でも社会構造に照らし合わせて、自分がそれをしてはいけない、必ずこれをやらなければならない、という監視システムが働きます。

こうした自己監視システムは学校や家庭、職場などで生活しているうちに自然と作り上げられます。そのため、個人は自由なようで実は自由ではない、常に権力を働かせる自我が入り込んでコントロールしている、という結論になっています。確かに、100%自分の考え方で決断をしている、という人はなかなかいないと思います。生活の中で構築された倫理観や経験によって決断をしていると思います。

では、こうした監視システムから抜け出すためにはどうすればいいのか?この問いに答えはありません。相手が見えないですし、変えようと思うと社会そのものを変える必要があります。しかし、自己監視システムから逃れる必要はない、と思います。自分が社会の大きな波の中にいることを自覚することで、逆にその波を利用することができます。その中で自分の決めた課題に取り組むことが幸せになるための近道ではないかと思います。

まとめ

今回は哲学者の名言を詳しく解説しました。人生や生き方に迷っている人には参考になるものがたくさんあったのではないでしょうか?

個人的にはニーチェやサルトルの考え方が好きです。世界に意味などないから自分で目標を決めて達成していこう、という考え方です。ただ、どんな目標でも良いわけではなく、誰かのためになる、人類のハッピーを増やす、という感じの目標でないと自分も幸せにはなれないと思います。

参考になれば幸いです。

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